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「リサイクル」(13~15)

その日朝から絵里は苛立っていた。華奈は食事の途中で飽きて遊び始め、祐介は好きなものだけを食べて皿の上を散らかしている。
だがそれはいつものことだった。絵里を苛立たせているのは、恭介への劣等感である。
金曜の食事会で華奈が見知らぬ婦人に話しかけたことを、絵里はいつまでも責めた。私が言わせたわけではないと無意識に夫へ訴えたかったのかもしれない。
華奈はいつもそうするように、ちょっと首をすくめて「ごめんなさい」と謝るが、その後に聞こえないため息が混じっているように思えて、更に絵里を激昂させた。
「ちゃんとママの言うこと聞いてるの? もう、お願いだからママに恥をかかせないでちょうだい」
そう言って新しく来た料理を皿に取り分けようとした時、恭介が静かに箸を置いた。
「何か飲み物頼む?」
祐介へ皿を渡しながら夫に尋ねると、「もういい加減にしろよ」と抑揚のない言葉が返ってきた。心臓に冷水を浴びせられたように、絵里は体がすくんだ。
「だって…」膝のナプキンをギュッと握る。
「誰もお前を責めていないし、華奈だって反省して次は気をつける。それでいいじゃないか」
穏やかに夫は言うが、だからこそ絵里はその本心を探ってしまう。
本当はもっと怒っているのではないか、今日の食事会も嫌々来たのではないか、そしていつも同じ不安に行き着く。私との結婚を後悔しているのではないか。
絵里がそう考えるには訳があった。
付き合うきっかけも、結婚への段取りも、全て絵里が先導していたからである。大学3年の春、同じゼミで恭介を見た。窓辺の席でひとり、厚い文庫本を読み耽っていた。
地味な人。
それが最初の印象だった。
活発で華やかな絵里の周りには男女を問わず人が集まり、グループで行動するのが常だった。
教授が来るまで絵里の席に集まり騒ぐなか、夫はいつも静かに本を読んでいた。ゼミの回数を重ねるごとに、彼の真面目さや教授と親しげに話す大人びた姿に心が惹かれた。他の授業でも彼の姿を探すようになった。
夏休みを前に絵里は思いきって声をかけた。気になったまま過ごすには、後期が始まるまでの2ヶ月は長すぎた。
「いいよ」と彼は言った。
大学を卒業後、夫は証券会社へ、絵里は大学院へ進んだ。特に深く勉強したいテーマがあるわけでなく、社会へ出る猶予期間を延ばす目的だった。両親も嫁に行くまでのんびりすればいいと、就職は特に望んでいないようだった。
時間がある絵里には、仕事で忙しく週末に会うのもままならない恭介が心配で仕方なかった。
職場の誰かが誘いをかけないか、本当は仕事というのは嘘ではないか。自分から動かなければ、このまま会えなくなってしまうのではないかと不安だった。
修士論文を提出した後、絵里は恭介を両親に会わせた。「ちゃんと紹介しておきたいから」と彼を家に呼んだのは嘘で、両親から結婚の話を出してもらうつもりだった。「やだ、お父さん、気が早いわよ」と照れたのは演技だと見抜かれなかっただろうか。
駅まで恭介を送りながらせっかちな両親を詫びると、恭介はまた「いいよ」と言った。
夫はいつも優しく「いいよ」と答えてくれる。しかし一度も彼の気持ちを絵里に伝えてくれたことはなかった。
「いいよ」とは、君が好きだから「いいよ」なのか、どっちでも「いいよ」なのか、絵里には確かな自信が持てなかった。
常に夫の背中を追いかけてきた。不安と猜疑心の中で。恭介に出会うまで自信に満ち溢れていた絵里だが、彼のストイックさを知れば知るほど、何か自分が愚かに思えていつしか恭介に劣等感を抱くようになった。佑介を妊娠したことをきっかけに恭介は自分の書斎にこもることが多くなり、そしていつの間にか寝るのも別々になった。彼は「大事な体だから、俺のことは気にしなくていい」と言ってくれたが、それは建前で、他に女がいるのではないかと更に絵里を疑心暗鬼にさせた。それとなくカマをかけたこともあったが、「どこにそんな余裕がある?」と笑って流された。
劣等感と猜疑心。壊れそうなバランスで毎日を過ごす絵里を支えたものは、両親の存在だった。大人になった今でも自分を全て肯定してくれる優しい父と母。そして財力も絵里の力になった。家財道具のほとんどは絵里の両親からのプレゼント。この分譲住宅の件も恭介に話す前に、父親とは資金の面で話はついていた。
恭介の両親は本当に親子かと驚くほど無学で教養がない田舎者だった。恭介が大学進学を願い出た時も、高校まで出してやって卒業後は働いて家に金を入れるのかと思ったら、まだ金を出せとは何事だと怒鳴るような父親。勘当同然で実家を出て以来一度も帰らず、奨学金とアルバイトで学費と生活費をまかない卒業した。結婚式も体裁を整えるために両親兄姉が来たが、ろくに話もしないまま逃げるように帰って行った。
あなたにはここ以外に帰れるところがないけれど、私には戻れる温かな場所がある。それが絵里の優越感だった。あなたが安心して自分の世界にこもっていられるのは、私の両親のおかげじゃないの。いくらインテリを気取ったって、あなたは実家を誇れない。
自分を否定された時、絵里は決まってそう心の中で言い返す。
テーブルで騒がしい音がして、絵里はいつもの朝の風景に引き戻された。
華奈が皿にスプーンを落としたようだ。
「華奈ちゃん、いい加減にしないとママ怒るわよ。佑介もきれいに食べなさい」
キッチンから声をかけ、華奈の弁当を詰める。時計を見るとそろそろ恭介が部屋から出てくる頃だった。
土曜から恭介とはほとんど口をきいていない。
絵里がすねているわけではなく、夫が家族から距離をおいているのだ。
家族の間で何か面倒なことがあった時、恭介はいつもそうする。まるで自分はその空気に染まりたくないと言っているかのようだ。
絵里にはそれが腹立たしく、そして疑問だった。
夫は自分の何を守りたいのだろう。
夫が書斎へこもればこもるほど、絵里は家事を完璧にする。本当は当てつけなのかもしれないが、恭介は気づく様子もなく、「いつもありがとう」などとほめたりする。
今朝も完璧な朝食を用意し、夫がテーブルにつくのを待つ。
7時半ぴったりに部屋から出てくる気配がした。
「おはよう」
子供たちへ声掛けし、席に着いた。
「今日は随分リッチな朝ごはんだね」
キッチンの絵里へ言って箸を取る。
「週の始まりだから、しっかり食べて行って」
絵里は忙しいふりをして目を合わせなかった。
母も、と絵里は思う。
母もこんなふうに自分をだましながら私を育てたのだろうか。
いいえ、違う。
母にはそんな卑屈さはない。
だから、相談できないのだ。
母の横顔に少しでも自分が重なれば、迷うことなく愚痴を話しただろう。
共有できない愚痴はただの悪口になってしまう。
「あらあら、私たちまで巻き込んで結婚までこぎつけたのに、もう悪口?」
屈託のない笑顔で、母はきっとそう言うだろう。
華奈の好きなウサギのキャラクターのランチバッグに出来上がった弁当を入れる。紐をついきつめに結んでしまったのに気付き、慌ててほどいた。
「ママ、きょうのおべんとなあに?」
食器を下げに来た華奈が背伸びして覗き込む。
「今日はね、うさこちゃんのお顔だよ」
「わー、いまみたい、いまみたい!」
「だーめ。お弁当の時間まで楽しみに待ちなさい」
「はーい。ともきくんにみせるんだ」
智輝の母親はキャラクター弁当が得意でブログも開いているらしい。何となく出来上がっているいくつかのママさんグループの中で一目置かれている中心人物だが、絵里を意識しているらしく、何かとからんでくる。
棘だらけのほめ言葉に最初は戸惑った絵里だが、最近はうまく受け流せるようになった。
とにかく笑顔で「ありがとうございます」と答える。何も考えない。馬鹿の一つ覚えのように「ありがとうございます」を繰り返す。
彼女を見ていると、学生時代の自分はこんなかんじだったのかもしれないとぞっとする。
常に誰かに囲まれている人間は、自分に注目しない者が気になる。
異性ならば恭介のように恋愛対象にもなりうるが、同性ならばただの敵だ。そのことは絵里が一番良く知っている。だから逆らわない。
「ごちそうさま」
恭介が席を立つ。いつもながら食べるのが早い。本当に味わってくれているのか、そんなことまでも疑うようになっていた。
エプロンで手を拭きながら夫の後を追う。
書斎に戻って鞄を持ってくる間、絵里は寝室のクローゼットからハンカチを出してくる。
いつもの流れだ。どんなに恭介に苛立っていても、絵里は必ずハンカチを持って送り出した。
「今日は少し遅くなると思う」
靴を履きながら恭介が言う。
残業はない。この街ではしてはいけないのだ。
だから仕事にかこつけての帰宅拒否ができない。
男たちは皆勤手当と称したビール券をポケットに、毎晩どこかで時間を潰す。
恭介は佐藤と呑んでくるか、図書館で調べ物をしてくるかのどちらかだった。
「佐藤君と?」
「いや、図書館に寄る予定」
「わかった。じゃ、夕ご飯は食べるのね」
「ああ、軽くでいいよ」
「適当に用意しておくわ」
ハンカチを渡した手を恭介の肩に伸ばし、唇を差し出す。
彼が身をかがめキスをしてくれる瞬間に、妻としての実感がある。
自分の唇が避けられない限りは、この人の妻でいられる。
消極的な自信。だが絵里はそれすらにもすがりつきたかった。猜疑心に囚われた自分を忘れられる一瞬であるからだ。
「いってらっしゃい。気をつけて」
いつもと変わらない細い背中を、ドアがゆっくりと遮って行った。