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「リサイクル」(10~12)

市内の灯りを見下ろす窓際の席で、淑江は傍らに置いたパテック・フィリップの文字盤を撫でていた。今日で十年。この時計も主人が帰ることをじっと待ち続けている。
結婚記念日に夫とここで食事をした夜は昨日のことのようだ。静かに語りながら時間をかけて一皿一皿を楽しみ、この時計を見てそろそろ帰るかと満足げに笑った夫。来年もここにするかと冗談交じりで約束をした。
翌朝いつもの時間に靴べらを持つ右腕にもこの時計はあった。いってらっしゃいと背中を見送った。その6時間後に夫の勤め先に呼ばれ、上司という男から昨日付けで解雇されていたことを知った。そんな話は聞いていない、今日も普通どおりに出勤したと詰め寄ったが、誰も見かけていない、置きっぱなしの私物を勝手に片づけるわけにもいかないので引き取っていくようにと事務的な指示しか返ってこない。そして半ば投げられるように渡された市の書類には、規定に則り住宅を払い戻す旨と、精算が済んだら転出するよう手続きが記されていた。何がどうなっているのかわからず、頭が真っ白になった。
気の毒そうに小声で案内する女性社員に促され、残された夫の荷物を紙袋に詰める。几帳面な彼らしく机の中は綺麗に整頓されていた。最後の引き出しを開けた時、この時計が目に飛び込んできた。思わず声をあげそうになるのを、あわてて手で押さえる。震える手で時計をつかみ、自分のバッグへ滑り込ませた。誰にも気付かれなかっただろうか。とにかく一刻も早くここを出なければ。上司の迷惑そうな視線を幸いに、挨拶もそこそこに逃げるように職場を後にした。秋も終わりだというのに、バスに乗り家に着くまで冷たい汗がとまらなかった。もつれる足をなんとか繰り出して玄関に辿り着き、家に入ると急いで鍵を閉めた。そのままリビングへ進む。立ち止まったらもう動けなくなってしまう。ダイニングテーブルへ荷物を放り、泳ぐようにキッチンへ向かう。勢いよく出した水で汗が滴る顔を洗う。力が入らない手でコップを持ち、一気に飲み干して激しくむせった。左手で胸を叩きながらまたテーブルへと戻る。椅子に倒れこみ、手探りで引き寄せたバッグの中から時計を取り出した。震える両手で包み込む。この時計は今朝彼の腕に確かにあった。彼は今日あの席にいたのだ。もし夫でなく職場の誰かが入れたのだとしても、誰見かけていないという上司の言葉は嘘だ。夫に何かが起きたことは明らかだった。そして彼が肌身離さず、何よりも大切にしていたこの時計を置いていったことが、淑江へのメッセージだと直感した。自分の意思で行方をくらますのではない。パテック・フィリップの白い文字盤は、そう淑江に告げていた。

警察へは何の届け出もせず、淑江は黙って街を出た。夫の同僚やその家族が心配し、あれこれと考えてくれた案も断った。誰も信じられないのが正直な気持ちだった。あの日の朝まで誰も夫の解雇を知らなかった、監査で赤札がでるようなことは思い当たらない、いつも一番に出勤しているのにその形跡はなかったと皆首を傾げ、慰めの言葉をかけてくれたが、その親切の裏には夫の失踪に関わる黒いつながりがあるのではないか。何でもない会話にまでも神経を磨り減らした。混乱しきった頭の中を整理し、夫を探す手を考えるには、黒い要塞と化したこの街を離れることが先決だった。
「この街へ来たことが間違いだったわ」
テーブルの上の時計を撫でながら、淑江は今年も呟く。この十年、手掛かりを求めて歩き回った。要塞の全貌とまではいかなくとも、おおよその見当はついた。だが、立証する手立てがない。そして夫が生きている保証もない。老いが迫った身に抱えこむには重すぎる問題。もう諦めようか、何度も思うたびに、パテック・フィリップの文字盤が淑江に訴えてくる。私は主人を待っているのだと。
「そうね。まだまだ頑張らなくてはね」
口直しに何か頼もうと手を挙げると、店の入り口の方から4人の親子連れが来て、淑江のテーブルの前を通り予約のプレートが置かれた席に案内されていった。
ボーイが「只今うかがいます」と淑江に声をかけて、彼らを椅子に座らせている。
誰かの誕生日なのかしら。皆身ぎれいにして、今夜を楽しもうという気分がここまで伝わってくる。あんな笑顔で夫も私もここにいた。翌日にすべてが変わってしまうなんて、これっぽっちも思わずに。明日のことなんて、何の保証もないのよ。せいぜい今夜を楽しみなさい。
そんな心の声が聞こえたかのように、女の子が淑江を振り向いた。
「おばあちゃんひとりでごはんたべてるの?」
慌てて母親が体をテーブルに向けさせ、淑江に頭を下げた。
「華奈ちゃん、よその人はいいの。失礼でしょう。ママ恥ずかしいわ」
小声で娘を叱る。
「だって、あのおばあちゃんかなたちのことみてたから、いっしょにたべたいのかなっておもったんだもん」
無邪気な子供の言葉に淑江はギクリとしつつも、頬笑みを作り
「おばあちゃんはね、もう食べ終わってしまったから、帰るところなのよ」
と声を投げかけた。
「そうなの?」
と少女は聞き返す。
「ええ、、もうお腹いっぱい。じゃあね。みんなでたくさん食べて帰ってね」
ちょうどテーブルに来たボーイに勘定を伝え、席を立った。まだ不満げに淑江を見る少女の視線を振り切るように、出口へと歩く。
あの子には本当に私の声が聞こえたのではないかしら。少しの後ろめたさと驚きで、右手に握った時計が汗で湿っていた。

支払いを済ませ店を出て、誰かが追いかけてくるような気配に淑江は振り向いた。見ると先程の母親が顔を少し紅潮させて立っている。
「あら、私、落し物でもしたかしら」
慌ててバッグやコートを探る。
「いえ、そうじゃなんです。あの、一言お詫びをと思って」
そういって彼女は綺麗な眉をしかめ「本当に娘が失礼なことを申しまして、すみませんでした」と頭を下げた。
「いやだわ、ちょっと、そんなことしないでちょうだい」
淑江は彼女の背中に手を置き、顔を上げさせようとした。
「気にしてなんていないわよ。あのお譲ちゃんにはそう見えたのね。実際私は今ひとりだし、素敵なご家族だなって眺めていたのよ」
きっちりとした夜会巻きの髪を撫でつけながら母親は顔を上げ、
「今日はあの子の誕生日でして、はしゃいでいるせいもあったかと思うのですが・・・」
と言い訳のように付け足した。
「あら、お誕生日なの。それはおめでとう。お幾つになられたの? 」
「はい。三つになりました」
「三歳? ずいぶんしっかりしたお嬢さんね。先が楽しみよ」
そう言うと母親はやっと表情を和らげ「おませさんで困っちゃいます」と笑った。
「叱らないであげて。せっかくの楽しいお食事なのに、かえって気を遣わせちゃってごめんなさいね」
彼女の肩を叩き、淑江はエレベーターへと向かった。開いた扉に乗りこんで振り向くと、母親はまだ入り口で淑江を見送っていた。笑顔で手を振りながら扉が閉まるのを待つ。
「あの子のためじゃなく、自分のために謝っていたわね」
眼下に広がる街の灯りを眺めながら、そう呟いた。
誕生日だというのにあの少女には悪いことをしてしまった。心の中まで見えているかのような澄んだ瞳だった。そう、寂しかったのかもしれない。いや、事実寂しいのだろう。あの子にはそれが伝わった。寂しさと嫉妬。
「子供に嘘はつけないのね」
夫婦に子供は授からなかった。定年後の生活を見越してこの街の分譲計画に乗った。
ごく平凡に慎ましく暮らせば、何の不安もない老後が送れるはずだった。
「この街に来たことが間違いだったのよ」
静かに開いた扉をくぐり、淑江はまた孤独へと帰って行った。