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2010/09/01

潔い人

pig今日の一冊

かぎりなくやさしい花々 Book かぎりなくやさしい花々

著者:星野 富弘
販売元:偕成社
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星野さんの絵葉書で時折春日部の義母が荷物にメッセージを添えてくれることがあり、クリスチャンであることと、口で筆をくわえて絵を描いている方だということは知っていました。
先日仕事先の図書室でこの本を手書きで写したものを見つけて、ちらっとのぞいてみたのですが、いやいやこれはきちんと読まねばと借りてきたのです。

星野さんは小学生の時に見た模範演技に魅せられて高校・大学と器械体操を続けた後、小さなころから大好きだったスポーツをやりたいと中学の体育教師になります。
しかしその2カ月後の放課後、マット運動で着地に失敗し頚髄を損傷、その瞬間から首から下が全く動かなくなりました。
この本は幼少期から事故のこと、9年間の入院生活のことが書かれています。

ちょっと余談ですが、余命何年とか難病と闘った記録みたいな、死ぬことを前提とした話は好きではないと以前に書きました。
最近そういったテーマの映画がまた増えましたけど。
命の期限って誰が決めるんでしょうか?
お医者さん?
お医者さんに「あと3年です」とか言われて、「ああ、そうなんだ・・・」って、本人は全然そんなこと思っていないのに、周りの人たちは「ああ、この子はあと3年以内に死んでしまうんだ」っていう目で見続ける。
そんなマイナス思考の人に囲まれていたら、まだまだ大丈夫な命も縮んじゃうよなあと思うんですけどね。
でもね、その裏では矛盾があるんですよ。
「あと3年」ってことは3年は生きられるって思います。
でもね、3年間ちゃんと生きられる保証なんてどこにもないんです。
病気での統計上の寿命はあと3年かもしれないけれど、事故や天災で1年後にはもうこの世にいないかもしれない。
何かね、おかしいんです、命の期限を良く考えると。

もうひとつ命の期限で「むむ!」っと思ったことがあって、アメリカの大学教授がすい臓癌だか何かで余命1年と宣告される。でも入院せずに可能な限り教壇に立ちたい。命の期限が迫った今、私は生徒に何を教えてあげられるだろうかと最後の授業について考えるとかいう本のようです。読んでないから薦めた人から聞いた話しね。
「なんていい話!」って思います?
いんや、私は思いません。
じゃあ、今までの授業は何だったの? って。
死ぬ前に気が付くんじゃなくて、日々意識して真剣に生徒に伝えなよって。

死が身近に迫ったから残り(があると思っている)の人生を精一杯生きるって、なんだか「余命」という言葉がそれまで人生サボってた自分への免罪符のように思えてしまうんです、私には。
平均寿命まで生きられるのが当然とか思っている傲慢さを捨てて、毎日毎日「今日が最期でもいい」って思って生きたら、それだけで一日一日をとっても大切に感じると思うのです。
「死と向き合って私は大切な何かに気付きました」とかいう自己克服調な話し、
「大切な何か」って何? 
具体的にわかっていないなら本質に気付いていないのでは?
なので、そういう「雰囲気的単語」で涙(&お金)を誘おうとするメディアに疑問符だらけの私なのです。

で、話を元に戻しますが(余談が本論になっちゃうところでした)、この星野さんの本は、そういう類の自己克服本ではないのです。
何て言うんだろう、人柄が表れているんだろうなと思う、淡々と正直にありのままを記したものでした。
幸せな人を見ればにくらしくなり、大けがをして担ぎ込まれる人がいれば仲間ができたようでほっとする。
熱が出れば大騒ぎになって先生や看護婦さんがたくさん集まってくるのに優越感を感じる。
先輩が置いて行った聖書を開くまでの心のうち等・・・。
この本が清水のように心に浸み渡って行くのは、次の一文に表れていると感じました。

わたしは絵を特に習ったことはありません。色彩や構図といったものもわかりません。でもこのような花をそのまま紙に写してゆけば、きっと良い絵が描けると思いました。
神様がつくったものならば、何も知らないわたしが頭をひねって無理につくらなくても、そのままで良いのだと思いました。
絵で何かを表現しようとか、それを人にわかってもらおうとか考えなくても、花そのものが何かを語り表現しているのですから。

脳神経外科医の福島孝徳先生も、同じようなスタンスの人だと思うんですね。
手術の時は足袋をはく(お父さんが明治神宮の宮司さんで、そういう環境で育ったからなのかはわかりませんけれど)。
「神の手」と言われていますが、私が思うに「神様の手」が先生を助けているのではないかと。
何故かというと、彼は自分を第三者的に「福島先生」と呼んでいたからなんですね。
「福島先生が手術するから大丈夫」とか「これは福島先生じゃないとできないの」とか患者さんに話している。
そこには「我」がないんです。
勝手な私の憶測ですが、手術中に先生は神様の存在を何度も感じたことがあるんじゃないかって思えて。
大きな導きを体感した時、「我」ってなくなるような気がするんです。
私であるけれど私ではない。
星野さんは花の絵を描くけれど、それはそこにあるそのままを写しているのであって、星野さんが意図して創ったものではない。
福島先生の手術は難しいけれど、そこにある腫瘍を取り去って本来の姿に戻すことである(と私には思われます)。

「罪深く弱い人間」の章で、気付いた自分の弱さや情けなさを綴っているのですが、読んでいて「ああ、そうだよね。私にもあるある、こういう気持ち」と共感するけれど、でも、何て言うか裏ではないんです。気持の裏側、陰の部分での共有ではなくて、陽の当たる側のこととして書かれているから、共感を超えて「ああ、偉いなあ」という感銘に変わるんですね。
よくある「私もおんなじだから大丈夫」という後ろ向きな傷の舐め合いではなくて、語るそこには「我」がない、というか超えちゃっているから、私も自分でもいい加減持て余してる「我」を横に置いて、「ああ、そうか。そういうふうに考えられるんだ」と客観的に理解できる。
なかなかないです。こういう本。

感情移入して泣きたがる風潮じゃないですか、最近。
「わかる、わかる~。辛いよね~。苦しいよね~」って。
実際その病気になったこともないのに。
書き手(出版側)もそういう反応を期待してつくるでしょう。
「感動してください! 泣いてください!」みたいな。
でも本当に胸を打つのは、淡々とした姿勢。

今の仕事(パートだけど)をしていて感じたんですけれど、あんまり入れ込む姿って本人は満足なんだろうけど、まわりは逆に引くよな~って。
「大変な状況を私一生懸命やってます!」的なアピールって、「我」の塊りだからよろしくない。
大変なことを大変と周りに思わせないでさらっとこなしている人が、本当にできる人。
大変でもないことを大変に思わせて、注目を浴びようとする人は・・・、なんだろう、とりあえず「大変ですね」って声をかけたら、さっと逃げた方がいい人(笑)。

そうか、星野さんも福島先生も「すごい」地獄にハマらなかった人なのです。
一度人から「すごいね!」と評価されると、もっともっと褒めてもらいたい、良く見られたいって思って、次々「すごい」と言われそうなことを探してしまう。
そうして「すごいね」を求めているうちに、本当はやりたくないことまでやらなければいけなくなってしまって、自分を見失ってしまうっていう蟻地獄のようなお話。
先日紹介した「道は開ける」に載っています。
同じ事を話しても自慢に聞こえて不快感を覚える人と、素直に感心できる人の差って、この「すごい」地獄の住人かそうでないかの違いかもしれません。
ハマっている人だったら、「すごいね」って言って、さっと逃げましょう。

「花に描かせてもらおう」という星野さんの心は、決して受け身なのではなく、「我」のない潔さなのです。
ああ、そうです、星野さんは実に潔い人だとこの本を読んで感じました。
潔い人、星野さん。
是非ご一読ください。

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